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『沈む』


Last update:2020.01.24

1992年、川崎バプテスト教会で洗礼を受けた。

それは頭も含め全身を水に浸すバプテスマ、つまり浸礼(しんれい)だった。

なんでも形から入る方なので、現教団の滴礼式はなんとなく物足りなさを感じてしまう。

けれど、儀式など本当はどうでもいいはずなのだ。信仰さえあれば。

 

私の場合、キリスト教を信じるから洗礼を受けたと言うのとは少し違う。

バプテスマ(浸礼)を受ければ、聖書の御言葉をより理解できるようになる…

という言葉を信じたから。

元々、聖書にある有名な言葉の真意を知りたいと思ったのが教会を初めて訪れるきっかけだったから、自然な流れとも言える。

 

だから、聖書に書いてあること全てを信じるか?と問われたら、自信がない。信じてみたい、から始まったけれどまだまだわからないことだらけ。

 

【悔い改めは生き方の方向転換】

というのはとてもしっくりくる。洗礼によって清くなった感じは全然ないし、聖書に書いてある通りに生きるのが難しいこともたくさんある。

ただ、考え方や物の見方は少しずつ変わってきた。これでいいのかな?と迷うことも多い。メッセージを通して、

それでいいよ!

と言ってもらえたようで嬉しくなる。勘違いかもしれないけれど。

 

初めて訪れたのがバプテスト教会で良かった、と思う。そうでなければ今はない。

「沈む」の書がバプテスマを受けたあの日の自分の姿に重なる。

Message Memo

イスラム教は洗礼などの儀式はなく、信仰告白をするのみ。

キリスト教の洗礼式は、ユダヤ教が土台になっている。罪を洗い流し、清めるイメージ。

信仰において何の上下関係などない。キリストにおいてひとつ。

入会資格などない。

 

洗礼を意味するバプテスマという言葉には身を沈めるという意味があるが、清めるなどの意味はない。

ヨルダン川、一番低い川の底。

 

悔い改めとは、メタノイア。生き方の方向転換。

洗礼は自覚できるタイミング。

低みに沈められ、低みから見直し、日ごとに洗礼を受けているつもりで歩みを進めたい。


東美教会 陣内大蔵 牧師

  • イザヤ書42:1-9
  • ヨハネによる福音書1:29-34